昔の農作業と暮らし

2011年5月17日 (火)

昔の農作業と暮らし 4

7s  9s  

 足踏み稲扱機を据付して作業する場所ですが、土間とは言わず「にわ」と言っていました。
 ギヤの噛み合わせに油入して朝暗いうちからゴオンゴオンと片足で適当の間隔で折り曲がった金具が一杯付いた丸い回転胴を勢いよく回転させ、それに稲束を押し当てて籾と藁を分離させる作業ですが、藁は藁で丁度の束にして屋外に放り出しておいて、籾の選別は特に手間のかかった作業だったと思います。
 直径80cm位の藤づるで作られた「通し」というものに籾を入れ、両手で持って適当に揺らして直に落ちた籾と「通し」に残ったものを選り分けて残った藁先に籾のついたものを盛り広げて「木ぎ」で打ち叩き、これも2人で行っていましたが再度「通し」で選り分け何回か繰り返し行っていました。
 籾は「ひろ」という所に蓄えておいて満杯になるまで何日分も蓄えておりました。
 その日の区切りがついた所で仕事を終え「にわ」を箒で掃いてきれいにして父は馬に餌を与え風呂に火を入れて母は食事の仕度、僕は鶏と兎に餌を与えて、大体このようにして家の中、居間に落ち着きました。稲扱き作業は12日位で終わって、蓄えておいた籾の籾摺りを行うため隣集落の機械を移動して来てくれる方に頼んで来てもらいました。
 ちょっと忘れていましたが、稲扱き中、屋外に放り出していた稲藁は家の横の畑の一角に直径4m程に丸く積み上げて屋根の部分も藁で作った「とば」というものできれいに覆って、雨水の漏れのないようにして保存していました。
 籾摺りとエンジンを2台のリヤカーで運搬して「にわ」に据付して僕は天井から吊るした秤に籾摺りした玄米を運び入れて目方量を確認し、60.5kg位だったと思いますが、米俵に入れて父に渡していました。

         濁酒(どぶろく)の    匂いでどこに   隠しても

                            武男

2011年4月13日 (水)

昔の農作業と暮らし 3

6s

 玄関から正面は先に話をした稲積場で、その横に馬屋の2階に上がる梯子があり、一帯は土間続きで左の隅の方に籾殻釜があり右側まっすぐに居間への上がり框、靴を脱いで居間に入るとすぐ囲炉裏があり、その上には火棚があり中心から鉤縄(かぎなわ)が釣り下がっていて、鉤縄の鉤に色々な煮炊きの鍋を掛けて生活をしていました。鉤縄の太い真っ黒な縄は、年輪に輝いて見えました。
 燃料は薪か薪より細い雑木を燃やしていました。外に籾殻も暖を取るため、囲炉裏の灰を堀り上げ籾殻を沈めて自然と暖かくなるようにしたりしていました。
 この囲炉裏端は最高の一家団らんの場で、冬の寒さの時期は囲炉裏の廻りで食事をしたり「渡し」で餅を焼いて食べたり、父が晩酌をしながら僕らに色々話し掛けたり、時には囲炉裏の灰に足を入れて怒られたり、その頃酒は濁酒(どぶろく)で馬屋の2階に秘かに醸造して父は楽しんでいました。餅を焼いた「渡し」というのは針金を並べたもので丁度に足が付いて直に火が当らないようになった金属製のものでした。
 この居間は10帖間位あり、右に座敷二間、その隣に僕らの寝床、座敷の左に父母の寝床がありました。居間から左に下台所、戸棚、水屋があり食事の用意もそこでしていました。その頃はまだ地下水の井戸もなく、すぐそばの用水路の流れ水を利用していました。
 居間は春から秋までは板の間で、秋寒くなってから藁筵(わらむしろ)を敷いて、天井は屋根裏まで丸見えの状態で、吹雪の強い日は居間、寝床にも軒先から吹き込む風と一緒に雪も飛んでいました。
 電灯は僕が4歳の頃、裸電球が点灯して大喜びしたのを覚えていますが、それ以前のランプ生活していたのもおぼろげながら覚えています。

                薪が燃え   静かに更けて   鍋煮立つ  

                                武男

2011年3月23日 (水)

昔の農作業と暮らし 2

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刈り取りも終わり、架(はさ)の稲もなくなった10月に入って稲積場の高く積み上がった稲の稲扱き(いねこき)の準備を始めます。
 稲積場から1日の分を用意して足踏み脱穀機を庭の土間に据付けて作業をしますが、一寸ここで家の中、土間住まいの関係をお話します。
 僕の家は、いつかお話ししたと思いますが、茅葺の曲屋で、小さい農家にしては割合大きな家でした。父が実家から独立した時に田んぼと一緒に購入したもので、その後母と一緒になり昭和16年1月に僕が生まれています。この家には昭和46年まで住んでいましたが、その後、冬季除雪の困難で200m程移転して集落の近くで住んでいます。
 話を戻しますが、外から玄関に向かって左側には小用のトイレがあり、大きな重い木製の玄関戸を開けると土間になっていて左側南に馬屋があり農耕馬一頭飼育していました。白系で道産子馬とのことで、近所にいる馬より僕が見ても少し小さめの感じがしていました。
 馬屋の前を通り左側には鶏小屋があり常に10羽前後は飼育していました。秋頃から卵を産み始めると、時々は食べることもありましたが、母は自分のこづかいに卵を数日ためておいて町に売りに行っていました。
 右側に回り、ここの板引戸を潜り抜け馬屋の南側を通れば左側に兎小屋があり、3匹前後いて多い時は5~6匹もいることもありました。兎の繁殖時期、冬の頃には巣作り観察等、目の離せない僕のもっとも関心の高まる時でした。
 その奥にもトイレがあり、手前の屋外には粗雑な小屋に木製の桧風呂があり、週2~3日は入浴したと思いますが、近所の農家の人達も利用しに時々通っていました。
 馬屋の南側通路は下屋になっていて屋根は杉皮で葺いていて石も上がっていたような気もします。

       熱い湯に     雪を投げ込む    裸かな

                              武男

2011年3月 2日 (水)

昔の農作業と暮らし  1

僕が小学校の頃の我が家の農作業と暮らしぶり等、いつかはお伝えしたいと思っておりました。又、我が家の歴史のページとしても今回思いきって記憶を辿り綴ってみました。
長い文章なのでこれからシリーズで載せていきたいと思っております。
下手な文章と挿絵でございますが、お読みいただければ幸いです。

1s  2s

稲刈り用の手刈鎌、刃渡り15cmの小さなギザギザのついた鎌で、サックサックと刈取り、その刈り跡に3m以上ある直径10cm程の木柱を3m毎に穴を掘り頑丈に埋め立てて横に長木を3段から4段の間隔を保った30cmから40cmの連なりの架(はさ)に生乾燥した稲束立(そくだて)を左右に根本を外にして丁度鳥が羽を広げたように2段重ねに背負って、架の側に下ろし、架なりに並べておきます。束立が架の近くの場合は棒2本を並べた上に束立を何段にも積んで、前後2人で架の側に揃えておいて遠くになると背負って運びました。
 背負って運ぶ時、羽を広げた束立を母は膝まずいて容易に立ち上がれず僕が荷縄の端を引っ張って手伝ったり後ろから押し上げて楽に立ち上がれるように手伝っていました。
 農繁期、特に晴天の日は、学校が終わると早く家に帰るようにしていました。架に掛けた稲は12日~15日位の天日で乾燥させ、それを天気のよい日に稲しまいと言って架の下に筵(むしろ)を敷いて架から下ろし、持ち運びに丁度良い大きさにして背負って家に運んでいました。
 僕の家は茅葺(かやぶき)家でしたので、土間の一角に大体5m4方藁を敷き詰めた稲積場があり、乾燥した稲を積んでおきました。父が積みながら母が下から一束ずつ届けて高くなるにつれ投げ上げて僕は母に近くにある稲束を手渡していました。稲しまい、この日は先生に早引きを届け出て大急ぎで家に帰ったものです。
 稲刈りをし、架掛けをして家に運ぶ、この順繰りの作業を秋の短い日和に僕の家は小さな農家でしたけれど父母は暗くなっても働いていました。
 秋も少し深まった頃、雨が続き農作業の出来ない合間に母とはよくキノコ狩りに行きました。多く採った時はずぶ濡れでも2人で大喜びしたこともあります。

      秋うらら    架(はさ)に登って  叱られて

                           武男

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あきた柳田農園のあきたこまち

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