原風景

2013年2月 6日 (水)

僕の心に残る原風景 その2 お宮での話

 
 僕の家の近くに、今は大きな銀杏の木に隠れるように鎮守の森があります。このお宮の広場では良く遊びました。当時は子供も多くいましたから、布で作ったグローブで野球をしたり、お宮の床下を秘密基地になぞらえたりして夏冬問わずここにはよく集まっていました。

 それと大人に僕はよく叱られました。お宮の屋根に駆け上がったり、近くの果樹園に侵入して果物を失敬した時、又、お宮の前の川の上流の水門のハンドルを回して流れを止めた時と、そうそう、村の中心部にあった旧校舎の屋根を走り回った時の計4回は今でも心に深く刻み込まれています。遊び仲間の先導での行動だったのですが、その頃を振り返って、よく怪我もしないで遊び回ったと思います。後で考えてみれば大人達の温かい見守りもあったと思います。

 お宮では四季折々のお祭りの他に、お盆には仮舞台も設けられ、芝居、民謡等も催され時には県南相撲大会も開催され、僕の父は大の相撲好きのせいか呼び出しをした事もあります。

 この広場での催し物も昭和40年代から50年にかけて、徐々になくなってしまいました。今でもその頃の遊び仲間と出会うと親近感が湧いてきます。その仲間も還暦を過ぎ古稀になってしまいました。

 僕はこの村で生まれて村の人達と父母に育まれた者ですが、いつも眺められる大きな銀杏の木と悠然とした鎮守のお宮に見守られながらこれからも安心して生きていける気がします。

     つぎはぎの   野良着を干して   猫見上げ

     いつまでも   思い出深い   あの仲間

     餌やりの    うさぎとやぎは   僕の役

                   武男

Miyas

2013年1月24日 (木)

僕の心に残る原風景 その2 村の風情

Gen2 Humis

 曲がりくねった通学路に沿って大きな樹木に囲まれた茅屋根で曲屋の大きな家が点在していました。
 曲屋の日当たりの良い方向には馬屋があって、馬屋から出した敷藁を屋外に積み上げ、5月頃から夏に掛けて腐敗、醗酵の極まりない臭いが辺りに充満していました。
 赤スモモの大木がそんな所にあっても僕らは梅雨晴れの合間に登りつめ赤スモモを取り合っていました。
 曲屋も玄関を入ると広い土間になっていて、上がり框から居間になり、囲炉裏に鍋が釣り下がり、左側には座敷、仏間と続いていました。
 祝い事、特に婚礼の時等、座敷の縁側が開放されて、僕らは奥の方を覗き見ながら賑やかに走り回っていました。このような座敷は何代も続いていて屋号で呼ばれていました。
 僕達は大きな屋敷で樹木の多くある家が、鳥の巣を探す楽しみもあり格好の遊び場でした。
 初夏の頃になると遊び仲間の勢いで近所の畑からキュウリ等を失敬して食べる事は度々ありました。
 夏の盛りになると近くの小川で泳いでいました。浅い所、深い所もありで、飛び込みは橋の上からで、川底には体に巻きつく位の長い草も生えていて、それでも何の、奇声を上げながら楽しんでいました。
 重厚な茅屋根曲屋も35世帯のうち3~4世帯あったと思いますが、昭和40年代後半にはすっかり姿を消してしまいました。
 曲がりくねった通学路もその頃と前後してほとんど真っ直ぐになり、その後舗装されました。

   野良道を   走りに走り   どぶに落ち

   青空に   継ぎの着物に   クワかつぎ

   子供らは   やぶれ着物に   素足がけ

                      武男

2012年8月 8日 (水)

僕の心に残る原風景   その1 田植えの話


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 田植えが最盛期になると僕の家でも着物姿の早乙女が苗籠を腰に、苗代で育てた露地苗を素手で一人4株を受け持ち、手際よく植えられていきました。もちろん素足で植えながら話し声、笑い声等、時折り聞こえながらの五月晴れの一見のどかな風景でしたが、先輩の母さんが先頭に作業のつらさを和ませようと笑いを誘っていたのかもしれません。「カッコウ」の声も遠くにゆったりとした村の趣が強烈に残っています。

 その頃、隣近所の農家が「結い」と言って僕の父母も近所の農家に出向いて田植え、苗取りを手伝っていて、僕の家で田植えの時、父母が出向いた家から来てもらって田植えを進めていました。方々の家に何人貸し借りしたとか「結い」の話を父母がしていたのを覚えています。

 朝6時から12時まで、午後1時から6時までの作業時間の間に午前午後と2回の休憩がありました。一時の作業からの開放、手足を流れでゆすいでむしろに足を伸ばし和やかな雰囲気で子供の話、嫁いできた嫁さんのことなど話に花を咲かせながら苗取りの男達は濁り酒を湯飲み茶碗で飲んでいました。その休憩時に幼子がいる僕の家庭では小走るように家に帰り母乳を与えおしめを替えて早々と休憩所に駆けつけていました。が、すでに田植えが始まっていることもありました。そんな時、先輩のお母さんが先の方にいて5株を植えて行き、遅れた人に3株で早く追いつくようにと微笑ましい光景も垣間見ることもありました。

 幼子は「えづめ」と言って藁で綺麗に作った丸いものに入れられ、古着物で首元まで押さえるようにし、その上を帯状のものできっちり盛返せないようにしていました。僕が学校から帰ると目を覚まし体を盛り上げるようにし、早くここから出してくれと言わんばかりに笑顔を振りまいていました。

 昭和30年後半から40年前半に掛けて耕運機、田植機の著しい発達で馬耕から手植え作業は徐々に見かけなくなりました。


      藁屋根の   軒に盛りの  あやめかな

      今の手に   昔を重ね   目を細め

      馬小屋の    藁の臭いの  懐かしさ


                         武男

写真・昭和30年代・武男撮影


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