僕の心に残る原風景 その2 お宮での話
それと大人に僕はよく叱られました。お宮の屋根に駆け上がったり、近くの果樹園に侵入して果物を失敬した時、又、お宮の前の川の上流の水門のハンドルを回して流れを止めた時と、そうそう、村の中心部にあった旧校舎の屋根を走り回った時の計4回は今でも心に深く刻み込まれています。遊び仲間の先導での行動だったのですが、その頃を振り返って、よく怪我もしないで遊び回ったと思います。後で考えてみれば大人達の温かい見守りもあったと思います。
田植えが最盛期になると僕の家でも着物姿の早乙女が苗籠を腰に、苗代で育てた露地苗を素手で一人4株を受け持ち、手際よく植えられていきました。もちろん素足で植えながら話し声、笑い声等、時折り聞こえながらの五月晴れの一見のどかな風景でしたが、先輩の母さんが先頭に作業のつらさを和ませようと笑いを誘っていたのかもしれません。「カッコウ」の声も遠くにゆったりとした村の趣が強烈に残っています。
その頃、隣近所の農家が「結い」と言って僕の父母も近所の農家に出向いて田植え、苗取りを手伝っていて、僕の家で田植えの時、父母が出向いた家から来てもらって田植えを進めていました。方々の家に何人貸し借りしたとか「結い」の話を父母がしていたのを覚えています。
朝6時から12時まで、午後1時から6時までの作業時間の間に午前午後と2回の休憩がありました。一時の作業からの開放、手足を流れでゆすいでむしろに足を伸ばし和やかな雰囲気で子供の話、嫁いできた嫁さんのことなど話に花を咲かせながら苗取りの男達は濁り酒を湯飲み茶碗で飲んでいました。その休憩時に幼子がいる僕の家庭では小走るように家に帰り母乳を与えおしめを替えて早々と休憩所に駆けつけていました。が、すでに田植えが始まっていることもありました。そんな時、先輩のお母さんが先の方にいて5株を植えて行き、遅れた人に3株で早く追いつくようにと微笑ましい光景も垣間見ることもありました。
幼子は「えづめ」と言って藁で綺麗に作った丸いものに入れられ、古着物で首元まで押さえるようにし、その上を帯状のものできっちり盛返せないようにしていました。僕が学校から帰ると目を覚まし体を盛り上げるようにし、早くここから出してくれと言わんばかりに笑顔を振りまいていました。
昭和30年後半から40年前半に掛けて耕運機、田植機の著しい発達で馬耕から手植え作業は徐々に見かけなくなりました。
藁屋根の 軒に盛りの あやめかな
今の手に 昔を重ね 目を細め
馬小屋の 藁の臭いの 懐かしさ
武男
写真・昭和30年代・武男撮影
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